2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で、8代目・市川染五郎(いちかわそめごろう)さんが初出演の大河ドラマで演じる、源頼朝の娘・大姫のフィアンセである木曽義高(きそよしたか)についてまとめてみたいと思います。
木曽義高の父は?
8代目・市川染五郎さん演じる木曽義高(きそよしたか、1173年~1184年)は、父は源義仲(通称木曽義仲・きそよしなか、1154年~1184年)の長男で、武蔵の国(さいたま)大蔵で誕生しています。
木曽義高は河内源氏の一族で、源頼朝(みなもとのよりとも、1147年~1199年)とは従兄弟になります。
ちなみに、源為義(みなもとのためよし)の次男で、木曽義高の祖父となる源義賢(みなもとのよしかた)の次男としてうまれたのが木曽義仲です。
よしたか・よしなか・よしかた。。。って紛らわしすぎて何だか早口言葉みたいですね。
1181年に平清盛が亡くなる前からすでに衰退していた平家に対して、1180年、後白河天皇の第3皇子の以仁王(もちひとおう、1151年~1180年)は平家追討を発令しました。
源義仲の叔父である行家は、平家追討が発令を受けて全国の源氏に挙兵を呼びかけていました。
この呼びかけに応じた木曽義仲の兄である源仲家(みなもとのなかいえ)は、間もなく討死します。
1183年に木曽義仲は、すでに亡くなっていた以仁王の子北陸宮(ほくろくのみや、1165年~1230年)を擁して挙兵、信濃を中心に勢力を拡大していく中、源頼朝と敵対した義広と、源頼朝に追放された行家が木曽義仲を頼ってきます。
木曽義仲は、頼朝と対立していた源為義の三男で義朝の弟である志田義広(しだよしひろ、不詳~1184年)と源為義の十男である新宮十郎行家(しんぐうじゅうろうゆきいえ、1142年頃~1186年)を庇った事で、頼朝と木曽義仲は武力衝突寸前となりました。
話し合いによって木曽義仲は、若干11歳の長男の木曽義高を人質として、鎌倉へ差し出すことで事なきを得ました。
源という、同じ血族で命を懸けて戦わないといけないのは何とも悲しいですね。
木曽義高 大姫との出会い
大姫(おおひめ、1178年~1197年)は、源頼朝(みなもとのよりとも、1147年~1199年)と、北条政子(ほうじょうまさこ、1157年~1225年)の長女として誕生しています。
源頼朝と北条政子は駆け落ちのような形で結ばれましたが、大姫が生まれたのを契機に結婚が認められたと言われています。
木曽義仲と源頼朝が、武力衝突を避けるための話し合いをした年の1183年、木曽義仲の長男である木曽義高が、実質的には人質ですが、源頼朝の長女である大姫と婚姻して婿入りしました。
このとき、木曽義高は11歳の頃、大姫6歳の頃と言われています。
現在の小学5年生と小学1年生ですね。大人の複雑な事情で婚約することになったとはいえ、二人は仲が良かったようで、何よりです。
木曽義高の最期
木曽義高が人質となって間もない1183年7月、木曽義仲は平家を京から追い出し、自らが入京をします。
期待された木曽義仲の兵は、京で暴行を行ったことですぐに民心が離れ、朝廷との交渉も失敗に終わります。
そこで後白河法皇は、木曽義仲追討を源頼朝に下し、源頼朝は、弟の源範頼(みなもとののりより、1150年~1193年)と源義経(みなもとのよしつね、1159年~1189年)を派遣しました。
1184年1月、木曽義仲は宇治川の戦いで敗れ、その後の粟津の戦いで討死します。
源頼朝の敵であった木曽義仲が亡くなったことで、人質の価値がなくなっただけでなく、生かしておくことで報復の可能性もあり、木曽義高の立場は悪化します。
源頼朝は木曽義高を討つことを画策しますが、このことに感づいた大姫は、母親である北条政子の力も借りて木曽義高を逃がします。
しかし、すぐに源頼朝の耳に入り、木曽義高追討の兵が派遣され、ついに1184年6月、木曽義高は武蔵国の入間川で藤内光澄に討たれ11歳という短かすぎる生涯を閉じています。
息子が人質となっている状況で、目立つ行動を取る親の心理を理解できかねます。父親の兵が暴行をはたらかなければ、評価されていたのでしょうか。
大姫の最期
大姫は嘆き悲しみ病床に臥せ衰弱していき、母の北条政子は大姫が寝込んだのは、木曽義高を討ちとった藤内光澄の非によるものと憤り、討伐命令に従っただけの藤内光澄は何故か討たれてしまいます。
しかし大姫の気持ちが晴れることはなく、深く傷つき寝込む日も多く、周囲が木曽義高の追善供養など様々なことを行っても心が回復することはなかったといわれています。
大姫も17歳となり、木曽義高が亡くなって約10年が経過した、1194年、源頼朝の甥の一条高能が京から鎌倉へ下ってきます。源頼朝は2人の縁談を進めようとしましたが、大姫は拒絶します。
他にも縁談が持ち上がりますが、いずれも実現することはありませんでした。
1195年になると源頼朝と北条政子は、嫡男の源頼家と大姫を伴って京に向かいますが、大姫の病状は悪化し1197年、大姫は20歳でこの世を去りました。
少なくとも大姫は木曽義高のことを一途に慕っていたことが伝わります。この時代では普通なのかもしれまれんが、源頼朝の非情さが際立ちます。
木曽義高のお墓
神奈川県鎌倉市にある常楽寺の崖に、木曽義高の墓と伝わる木曽塚があります。
中々分かりづらい場所で地図だけでは辿り着くことは難しいのではないかと思われる場所にありました。この動画を見ると良く分かります。
木曽義高の母親は?
木曽義高の父である木曽義仲は、『源平盛衰記(げんぺい せいすいき)』という物語に色白の美男であると描かれているだけあって、木曽義仲には何人か子供がいたと言われていますが、母親はいずれも不明ということです。木曽義仲の子供で詳細が伝わっているのは、長男義高だけのようです。
正室摂関家の松殿基房の娘・伊子
木曽義高の母親でないことは確実ですが、正室摂関家の松殿基房の娘・伊子と1183年に結婚し義仲30歳、伊子17歳だったとの説があるようです。1184年1月に義仲は討たれ、短い結婚生活でしたが義仲は都を離れる際に伊子との別れを惜しんでいたと伝わっています。
息子を人質に取られているというのに結婚⁈と驚いてしまいます。
信濃の妻
木曽義仲が木曽(信濃)にいた時の妻と思われます。木曽義高の母親かもしれません。信濃の妻は、木曽義仲が上京する時に同行しなかったようで、『源平盛衰記』によると、木曽義仲は巴御前に「信濃の妻に再び会えないのが心残り」だと語っているそうです。
中原兼遠の娘
木曽義高の母と伝わる女性の一人です。
妾
木曽殿は信濃より、巴、山吹とて、二人の便女を具せられたり。山吹は、いたはりあつて、都に留まりぬ。 引用:平家物語
山吹や巴御前が木曽義高の母親の可能性もあるようです。
木曽義仲とされる人物画を見るとカッコいいとは思わないんですけど、他にも木曽義仲と関わったとされる名前があり、木曽義仲がとてもモテていたということが分かりました。もしかすると、人たらしだったのかもしれないですね。
まとめ
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