今回は、2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に出演が決まった菅田将暉さんと今回演じることとなった源義経についてまとめてみます!
菅田将暉プロフィール
菅田将暉(すだまさき)さんは、菅生大将(すごうたいしょう)が本名だそうです。
菅田将暉は芸名だったんですね!本名もとてもインパクトがある強そうな名前ですね!
大阪府出身で1993年2月21日生まれ、魚座の28歳(2021年3月現在)です。
血液型はA型。身長は176㎝。所属事務所はトップコート。
家族構成は、両親と弟2人の5人家族とのこと。
趣味はサッカー、ダンス、ピアノ、洋服づくり。
スポーツから芸術まで多彩な趣味ですね!
洋服づくりは、明石家さんまさんにブルゾンをプレゼントしようとした時に、自分で作ろうとしたところからはまって、仲間2人と夜な夜な一緒に共同制作しているそうで本格的ですね。
自身を「好奇心の塊」と言っているそうで、これからも色んな趣味や特技ができて、新たな一面を見られるのを楽しみにしておきましょう!
2007年に開催された「アミューズ30周年記念オーディション」に応募、最終選考で落選。
2008年の「第21回 ジュノン・スーパーボーイ・コンテスト」のファイナリストに選出され、受賞はしていませんが、このコンテストがきっかけとなりトップコートに所属することになりました。2009年のテレビ朝日系「仮面ライダーW」では、オーディションで約2000人の中から選ばれ、ライダーのシリーズ史上最年少で初主演を飾っています。
2013年には主演した「共喰い」で第37回日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞しました。
芸能界に入った翌年に、若手俳優の登竜門と言われる仮面ライダーに出演して、しかも主役なんてすごい強運の持ち主ですね!
菅田将暉経歴
小学校は、地元の公立箕面市立西小学校に通い、スポーツは得意で、サッカークラブに所属し当時はスポーツ刈りで日焼けした少年だったそうです。
父親は経営コンサルタントをしていて家が裕福だったこともあり、英会話・ピアノ・ダンス・水泳など色んな習い事をしていました。
中学校も地元の公立箕面市第一中学校で、サッカー部に所属しますが、ピアノも続けていたとのことです。中学生でスカウトをされたようですが、この時は芸能界に興味がなく断っています。
高校は、大阪府池田高校(偏差値64)に入学。高校ではアメフト部でポジションはクォーターバックだったそうです。
芸能界に入る前は早稲田大学が志望校で、数学の先生になりたいと思っていたとこのとでした。
菅田将暉さんが数学を教えていたら、数学を好きになる生徒がたくさん居たかもしれないですね!
2008年に芸能事務所に入る時に、東京の高校へ転校したようですが、転校した高校名は明らかにされていませんでした。
中学時代はモテていなかったとの本人談ですが、高校時代はかなりモテていたようで「王子」と呼び名があったそうです。
実家が裕福だと我がままになりそうですが、菅田将暉さんは、小学校高学年の頃にはお母さんの代わりに弟を幼稚園にお迎えに行ったり、勉強しながら三男を寝かしつけたりと、家族想いな少年だったことが伺えます。こんなに気の利くこどもも中々いませんね!
菅田将暉彼女は?
熱愛の噂が絶えない恋多き男ともいわれているそうですが、そんな菅田将暉さんの現在の彼女は誰なのでしょうか?
現在、三度の映画共演をした小松菜奈さんと結婚前提のお付き合いをしているようです。
出会いは2015年から撮影開始された映画「ディストラクション・ベイビーズ」(16年5月公開)。続いて15年秋にダブル主演映画「溺れるナイフ」(16年11月公開)の撮影に入り、親交を深めたとのこと。交際に発展したのは2019年の秋といわれており、ダブル主演映画「糸」(2020年4月公開)の撮影中、小松菜奈さんの飾らない人柄に惹かれた菅田将暉さんが、猛アタックし交際へ発展したとされています。ファッションブランド「ニコアンド」のCMでも共演しており、菅田将暉さんは周囲に結婚したいと言っていて、真剣な交際を続けているようです。
多くのファンの間では、お似合いと祝福の声が上がっているようで、もしかすると結婚する日も近いかもしれないですね!最新情報に注目しておきましょう。
菅田将暉演じる源義経の生涯
2022年、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で菅田将暉さんが演じる源義経についてまとめてみました。源義経(よしつね)は、平安時代末期の武将で、悲劇の天才武将といわれているそうです。
平治元年(1159年)、父・河内源氏の源義朝(よしとも)と母・常盤(ときわ)御前(九条院の雑仕女)との間に九男として生まれ、幼名は牛若丸(うしわかまる)と呼ばれました。
鎌倉幕府初代将軍・源頼朝は義朝の三男で異母兄になります。
義経が生まれた年に、父は平治の乱で平清盛に敗れて討死します。
義朝の長男・源義平(よしひら)は斬首刑、次男・源朝長(ともなが)も討死、三男の頼朝は伊豆に流罪とされました。
絶世の美女だった母・常盤御前が清盛に見初められ、3人の子ども今若(いまわか)、乙若(おとわか)、牛若(のちの義経)の命を助ける代わりに、常盤御前は清盛の妾となりました。
将来武士になって反旗をおこさないよう、3人の息子は出家して僧として生きることを命じられ、京都の鞍馬寺(くらまでら)に、義経は7歳のとき預けられます。
義経は、15歳まで鞍馬寺で学問に打ち込んでいましたが、自らの出生を知り、平家打倒を決意しました。
承安4年(1174年)自らの手で元服(成人の儀式)を行い、奥州藤原氏3代目当主・藤原秀衡(ひでひら)を頼って平泉に向かい、秀衡のもとで武術を磨きました。
秀衡は、義経を手中にすることで、奥州を治める藤原氏の立場が有利になると考え、平氏の敵であった義経をかくまったとされています。
打倒平家
1180年、後白河法王(ごしらかわほうおう)の息子・以仁王(もちひとおう)が平家追討を発令します。
この混乱時に、摂津源氏の源頼政(よりまさ)に続いて、兄・頼朝が挙兵します。
兄の挙兵を聞きつけて出陣した義経は、22歳で兄・頼朝と初めて出会います。
この平家追討の功績で、後白河法皇が義仲より頼朝を高く評価したことがきっかけとなり、頼朝が従兄弟の木曽義仲と対立しました。
その後、後白河法皇は義仲により幽閉されたため、義経は京に進軍し、粟津の戦いで義仲を討ち取りました。
次いで、一ノ谷・屋島・壇ノ浦で平氏を全滅させた義経は、圧倒的な強さで有名になりました。
義経は、兵法の極意が書かれた、中国の兵法書六韜三略(りくとうさんりゃく)を読破したといわれ、天才的な戦術家として伝わっています。
異母兄・頼朝と不仲
しかし、次第に頼朝から不信感を持たれるようになってしまいます。
原因の一つに、頼朝の承諾を得ずに、後白河法皇から冠位を受け取ったことが挙げられています。
さらに、頼朝は頼朝の家臣・梶原景時(かじわらかげとき)から、「最後の敵は義経なり」とそそのかされて義経を敵として扱うようになります。
義経は、自分が源氏の名刀を持っていることで兄・頼朝と敵対しないように、持っていた名刀の薄緑を箱根権現(はこねごんげん:箱根神社)に奉納しますが、その誠意は頼朝には伝わりませんでした。
頼朝から敵とされた義経は、各地を転々とし、最後に陸奥の藤原秀衡を頼りました。
身の安全を保ちつつ、京都の様子をうかがうには絶好の場所だったのですが、秀衡も病に倒れてしまいます。
最期に秀衡は息子達に、義経を主君とするよう言い遺しますが、文治5年(1189)年、頼朝からの度重なる圧力に耐えかねた泰衡は、義経が身を寄せていた衣川館を3万の兵で襲撃します。
追い詰められた義経は平泉の持仏堂に入り、幼少期を過ごした鞍馬寺で授かったという愛刀・今剣で、妻子とともに自害しました。享年31歳。
義経のお墓
義経にとって平泉は、武士として武術を磨き、最後に頼った第二の故郷でした。
現在でも、仙台藩主第四代伊達綱村公が義経を偲んで建てた義経堂があり、中には義経公の木造が安置されています。
秀衡らの遺体が安置されている「中尊寺金色堂」、義経と家来の弁慶の木像が奉納されている「弁慶堂」などの痕跡が遺されています。
義経の遺体が安置されている場所も平泉だと思っていましたが、義経の首は鎌倉へ持ち帰られたとのこと。和田義盛・梶原景時が義経本人か確認したあと、頼朝が寒川神社に祀るように命じ、源氏の旗にちなんで白旗明神として祀られました。このため、寒川神社は白旗神社と呼ばれるようになり、現在に至っているそうです。
そして、源義経の胴体が埋葬されているといわれているのが、宮城県にある判官森です。
沼倉小次郎高次が当時治めていたので、その弟・杉目小太郎行信が身代わりになって、源義経を北に逃がしたという説もあります。
まとめ
菅田将暉(すだまさき)さんは芸名で、菅生大将(すごうたいしょう)という男らしい本名でした。
小さいころはサッカーをしていて、早稲田大学が志望校都だったということで、文武両道だったことが伺えます。ピアノも習っており、歌手だけでなく、作詞作曲まで手掛けるアーティストとして活躍されています。
気になる彼女は、三度の映画共演をした小松菜奈さんと結婚前提のお付き合いをしているようです。
今後は、2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に源義経役で出演します。
このドラマでは、小栗旬さん演じる北条義時が主人公なので、どの程度の絡みがあるか分かりませんが、悲劇の天才武将といわれる源義経をどのように演じられるのか楽しみですね!
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