今回は2021年大河ドラマ「晴天を衝け」に藤田小四郎役で出演中の藤原季節さんについてまとめてみたいと思います。
主人公・渋沢栄一とは酒場で出会い、ふがいなさを指摘されて、天狗党を結成したとのことですが、栄一と会ったのは数回ということです。
藤原季節プロフィール
藤原季節(ふじわらきせつ)さんは、出生地は北海道札幌市で、1993年1月18日生まれ山羊座の28歳(2021年3月現在)です。
血液型はB型。身長は173㎝。芸能事務所はオフィス作。
家族構成は、母、姉と妹がおり、3人兄弟の真ん中ということです。父親の話をしたことがないようで、情報が見当たりませんでした。
そして藤原季節さんの祖父は、総理大臣から勲章をもらっているそうです。
戦争を生き抜いた後、25歳から60年間漁港の灯台の管理をしたことが評価されたということでした。
無償でしていたそうで、60年間続けられることだけでもすごいですが、無償というのは他に仕事をしながらだったのでしょうか。大変な日もあったと思うので、評価されて良かったですね。
藤原季節さんの学歴ですが、北海道の高校を卒業して、表向きは大学進学ということで上京したようです。
高校は分かりませんでしたが、剣道の強豪校で活躍していたとこのとです。
家族にも内緒でしたが、実は俳優になることが目標だったので、芸能事務所どころか住む家も決まっていないまま東京に来たのだそう。
東京では、大学の演劇サークルや色んな劇団に所属して、小さな劇場で舞台に出演していたということです。
大学名も分かりませんでしたが、せっかく進学した大学は1年で中退し、劇場などで役者ひとすじで活動していたとのこと。
2013年、女優の松田美由紀さんが設立したオフィス作が開催した、参加者500人以上のオーディションで将来性を見込まれての合格で、練習生として所属したそうです。
2014年には映画「人狼ゲーム ビーストサイド」で俳優デビューを果たしています。
練習生だったのに、翌年にはスクリーンデビューしていたんですね!
そんな、藤原季節さんですが、小さい頃の夢は、大河ドラマ「武蔵MUSASHI」を見て、「宮本武蔵」になることでした。お母さんが剣道の先生だったこともあり、6歳から剣道を習い始め、剣道2段の腕前で高校まで続けていたそうです。
今回の大河ドラマ「晴天を衝け」で、水戸藩士・藤田小四郎役を演じ、夢が叶ったとまでは言えないかもしれませんが、大河ドラマに出演したことは夢に一歩近づけたのではないでしょうか。
いつか、武蔵役の藤原季節さんを見てみたいですね!
藤原季節の親友は?
藤原季節さんの親友は、間宮祥太朗(まみやしょうたろう)さん、とのことです。
間宮祥太朗さんは、藤原季節さんが出ていた小劇場の舞台をよく観に行っていたそうですが、間宮さんが出ていた舞台「銀河英雄伝説」の裏方スタッフを藤原季節さんがすることになって、それがきっかけとなり仲良くなったそうです。
候補に入っていた名前を見て、間宮さんは心の中で「藤原季節に決まってくれ!」と思っていたといいます。
2015年の映画「ライチ☆光クラブ」で共演した映画の舞台挨拶で、間宮さんは、「季節はすごくピュアで集中力が高いぶん、視野が狭くなる」と撮影場の藤原さんについて話ました。藤原さんは、10代の頃から親交のある間宮さんに対して「この男の主演映画に参加できて俺は幸せです!」「初めて一緒に舞台挨拶に立てて嬉しい」との思いを話ています。
北海道から東京に出てきて、とにかく友達が出来なかった。友達が出来ないのは、本当の友達が北海道にいるからだと自分を納得させた。でもその納得はここまで僕を遠回りさせてしまった。仲間が欲しいと素直に言えるまで6年もかかった。2018年のオフィシャルブログより
「毎日いる仲間ではなく、情報をくれる仲間が欲しい」とも書かれています。
文章から、真面目で正直な人な人柄が伺えますが、情報だけでなく切磋琢磨させてくれる親友の間宮祥太朗さんと出会えて本当に良かったですね。
彼女はいるの?
次に、藤原季節さんに彼女が居るのかについてですが、映画『人狼ゲーム ビーストサイド』で共演した土屋太鳳さんと交際しているのではないかという噂のみでした。
土屋太鳳さんは別の俳優と交際が噂されており、可能性は低そうですね。
これから、情報が出てくるのを待ちましょう!
藤原季節演じる水戸藩士・藤田小四郎の生涯
藤田小四郎(こしろう)は1842年、水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)の側用人で、西郷隆盛が心の師にしたともいう、水戸学の大家である藤田東湖(とうこ)と妾の間に四男として生まれました。
母親が正妻への礼儀を欠いたことで、家を出ることになりますが、兄弟の中でも聡明だった小四郎は、父・東湖の影響を受けて尊皇攘夷思想を掲げ、水戸藩の天狗党として活動していくようになります。
尊王とは天皇を敬い、攘夷とは外国人を追い出し日本を侵略から守るということです。
元々尊王論と攘夷論は別でしたが、孝明天皇が外国嫌いだったため、この二つの思想は合体して尊王攘夷論となりました。
江戸末期、薩摩藩や長州藩に先駆け、吉田松陰や西郷隆盛にも影響を与え、幕末の尊王攘夷運動の先頭に立っていたのが水戸藩です。
幕末最大の悲劇と語られる天狗党の乱ですが、「天狗党」とは、幕末期の水戸藩で活躍した尊王攘夷派のことです。
「天狗」の由来は、天保期(1830~44)の藩政改革時に、保守派が、改改革派の藩士には身分の低い武士が多く、成り上がり者が天狗になっている、と軽蔑の意を込めてつけたとの説があります。
改革派が尊王攘夷派へと続き、天狗党に受け継がれたと考えられています。
将軍継嗣問題や通商条約調印(1858年 、孝明天皇の許可を得ず日米修好通商条約を結んだ幕府へ批判が高まった)を巡って、開国派の大老・井伊直弼と対立した斉昭が安政5年(1858)に謹慎処分を受けると状況が変わり、天狗党は藩の実権を握っていましたが、諸生党と対立が激化していきます。
文久3年(1863)、会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派が、長州藩を主体とする尊王攘夷派を京都から追放し(八月十八日の政変)、水戸藩の実権を諸生党が握りました。
藤田小四郎挙兵
これに対して天狗党は、幕府に攘夷を促すため、元治元年(1864)年3月27日、藤田小四郎が22歳の時に指導者として挙兵し、数百人規模へと拡大させていきます。
幕府は天狗党の追討を命じ、諸生党からの天狗党に対する攻撃はますます激化していきました。
天狗党は、京都にいた斉昭の息子・慶喜を通じて、朝廷に尊王攘夷の意を伝えようと水戸藩元家老・武田耕雲斎を総大将とし、京都に向かっていましたが、途中の敦賀で追討軍に追い詰められました。このとき、追討軍の指揮をしていたのが、頼みとしていた慶喜だったため、1865年12月17日に降伏し、慶応元年(1865)2月に、武田耕雲斎、藤田小四郎ら352人が来迎寺の境内で斬首されました。
藤田小四郎は享年24歳でした。
水戸藩士のその後
その後、諸生党が武田耕雲斎の一族を死罪にするなど、天狗党に関与した人は粛清されました。
このような大量処刑という厳しい処罰がなされたことに対して、大久保利通は、「このようにむごい行為は、幕府が近く滅亡することを自ら示したものである」と日記に記しているそうです。
長州藩の下関戦争(1863年と1864年)や薩摩藩の薩英戦争(1863年8月)で外国との戦いに負け、今のままでは外国に勝てないと倒幕運動へ繫がっていき、1867年に江戸幕府が滅亡します。
1868年の戊辰戦争を機に、実権を奪還した武田耕雲斎の孫である武田金次郎ら天狗党の残党は、諸生党の報復に着手し、今度は諸生党の家族が次々処刑されるという悲惨な事件となりました。
このため水戸藩は大勢の優秀な人材を失ってしまい、明治新政府で要職についた水戸藩出身者はひとりもいないという、残念な結末となっています。
歴史に「もしも」はないと言われますが、優秀な水戸藩士が生き残っていれば、今の日本も違っていたんでしょうね。
武士の役で出演する藤原季節さんの剣道2段の腕前が披露される場面も期待してしまいますね!
まとめ
藤原季節(ふじわらきせつ)さんは、小さいころの夢である宮本武蔵になることを叶えるべく、6歳から剣道を習い、俳優になるために大学をして舞台経験を積んでいました。
北海道から上京して、友達ができなかったと打ち明けていましたが、今は間宮祥太朗さんというお互いが感化し合える仲間ができたようです。
これまで、彼女らしい噂もなく、女性のタイプについての情報もまだ見当たりませんでしたので、これから公表されるのを楽しみにしましょう。
「晴天を衝け」では、尊王攘夷派の水戸藩士・藤田小四郎役のため、主人公とはほとんど絡みはありませんが、武士を演じる藤原季節さんの演技に注目です!
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